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 【天理大學百年史コラム(14)】

寄贈資料の紹介(3)

1體の小さな仏像と茶碗が、2021年11月18日に寄贈されました。
戦時中に天理外國語學校にて學生生活を送り、卒業後戦地にて若くして亡くなった百軒三朗氏の遺品です。三朗氏の甥である山本芳弘氏が現在まで大切に保管されていましたが、このたび年史編纂室に寄贈していただきました。


蒙古語を學びたい

百軒三朗氏は、1940(昭和15)年4月に天理外國語學校支那語部第一部に入學し、1942(昭和17)年9月に卒業しました。
三郎氏が入學した當時の天理外國語學校では、朝鮮語部3學級、支那語部第一部5學級、支那語部第二部3學級、馬來語部2學級、西語部2學級、露語部2學級、英語部3學級、蒙古語部1學級、獨語部1學級の8部22學級にて編成されていました。このうち、蒙古語部と獨語部はこの年に設置された新たな語部です。
 

三朗氏は、宇陀郡伊那佐村(現宇陀市)の出身で、1939(昭和14)年に宇陀中學校を卒業後、大阪外國語學校の蒙古語部を受験しましたが合格できず、翌年に天理外國語學校の支那語部に入學します。
「馬賊になって一旗あげたい。」そんな夢を抱き、蒙古語への入學を希望していたと芳弘氏は伝え聞いています。
しかし、天理外國語學校では、同時期に蒙古語部を設けているにもかかわらず、なぜ支那語部へ入學したのか。実は、三朗氏の父親である冨次郎氏が蒙古語への入學を強く反対したそうです。
 
1940年の入學志願者は、朝鮮語部が2名、獨語部が9名で、支那語部第二部?馬來語部?西語部?露語部?英語部?蒙古語はそれぞれ10~20名程でしたが、支那語部第一部のみ119名でした。支那語部第一部は、時勢の影響により圧倒的に志願者數が多い語部でした。父冨次郎氏は、こうした狀況もあり支那語部への受験を認めたのかもしれません。
天理外國語學校の支那語部第一部では、専修科目として北京官話を17時間學びますが、蒙古語の授業が4時間、兼修科目として定められていました。つまり、支那語部へ入れば、少ない授業數ではありますが、蒙古語も學ぶことができたのです。三朗氏の學びたいという強い願いと、周囲の反対意見を飲まざるを得ない結果が、天理外國語學校への入學に結びついたのかもしれません。 

文蕓活動

當時の資料には、三朗氏は「中學第四學年期ニ於テ腳気病ニ罹リ欠席多シ、體格ハ健康ナラズ」とあり、病弱であったことがわかります。そうした理由もあってか、學生時代には、文化系のクラブである學蕓班に所屬していました。
學蕓班の活動としては、映畫鑑賞會、句會、文蕓雑誌の発行などをおこなっていました。
『心光』13號には三朗氏の詩が掲載されています。
 
 「冬の詩」 百軒三郎

冬が來ると私は狂つたやうに旅をあこがれる。
ひたすらに見つめながら
北風の中に立つた私の生は
かぐろき土の上に散らばつた
山茶花の花弁のやうに
その先端から染みて行く。

たたかひが起つて
暖かき日本人の血が今日は
冷たく凍つてまつしぐらに南に向つて飛ぶ

偉大なる世界の旅は
かくて冬に向つて南にとける。
窓を北風に開かう
きびしさに耐へて私は私の思念を
唯一の血の交流の中に捧げねばならぬ
そして
この使命に燃えた全心は
塔影香る大和路に
今日の私を歩ませてゐる。

詩のない社會の中に
概念から抜けた詩の実體を
民族の冬は そして
私の冬は 光明の中に信じつつ
新しき日々を
バラの紅さに生きつづけて行く。
1941(昭和16)年の太平洋戦爭の始まりに伴い、學生らを少しでも早く兵力とするため、高等教育機関の修業年限は短縮されます。
天理外國語學校では、本來であれば1942年に卒業するはずだった卒業生たちは、3ヶ月繰り上げとなり1941年12月28日に卒業します。翌年、三朗氏が卒業する時には6ヶ月繰り上げの1942年9月22日の卒業となりました。
三朗氏には二人の兄がいましたが、二人とも出征し、次兄は1942年に戦死しています。身近な家族や、同じ校舎で學んだ先輩方など、周囲の人々が次々と戦地へ赴く姿を見つめ、やがては自身も同じように海を渡って戦わねばならないと思いながら詠んだ詩なのかもしれません。
この詩のほかに、短歌も數首掲載されています。
これらの短歌には、法隆寺や般若寺を舞臺として詠まれているものや、百済観音救世観音といった観音菩薩も登場します。三朗氏が日頃から寺や仏像に関心を寄せていたことがわかります。
 

卒業記念制作

このたび寄贈された三朗氏の遺品である小さな仏像は木彫りで、三朗氏が天理外國語學校を卒業する際にその記念として自ら彫ったものであると伝えられています。仏像を納めた木箱の蓋の裏には「卒業紀念 美術文化の會 昭和十七年九月廿四日 三朗」と書かれています。 
1942年9月22日に天理外國語學校第16回及び天理女子専門學校本科第1回合同卒業式がおこなわれました。美術文化の會で卒業記念にこの仏像を展示したと芳弘氏は聞いていますが、當時の天理外國語學校の日誌をみても、9月24日に美術文化の會での展示があったことは記されていません。
この美術文化の會については、學內の資料では確認できていないので、天理外語公認のクラブではなかったようです。1942年に入學した岡本栄一氏は、在學中に美術クラブがあった、と記憶しています。この美術クラブは學校公認のクラブではなく、おそらく自分が在學中に出來たクラブだったかもしれない、他校や學外の人も入っていた、とのことで、この美術クラブが三朗氏が所屬していた美術文化の會のことかもしれません。
美術文化の會の詳細は不明ですが、『心光』14號にある「卒業生の橫顔」というコーナーで、三朗氏の人柄や美術文化の會のことが記されています。
「破れ靴に詩集と原稿紙をのぞかせてもうろうと現れた我等がパイシユワン、今日は朝早く宇陀の山奧から出て來たと思つたら明日は五時間目から出席と神出鬼沒変転自在、しかも持ち物は何時も詩集と弁當、心配し給ふな教科書は何時も學校に整頓してあります。日頃感覚的な彼、美術文化の會にはいつてからは益々磨きがかかり近頃の言の鋭い事鋭い事、仏像の観方、蕓術の感覚人生の考へ方、會に影響される処大きい。抽象論ばかりこねて一向御輿をあげないと思つて居たら、どうしてどうして近頃學蕓班を卒ひて八面六臂の大活躍、キューピーに髭を生やした様な顔付で『我が學蕓班の主旨は…』と迷説を吐いてたちまち丹波市に名を売つたのは良いが近頃少々厭人主義にかかつたらしい、ローマンスも度々きかされる処を見るともてて居る事は確かだが今は何とも分りません。第一乙に合格入営、彼の口癖の如く『たくましく』生きて行くでせう。心ある方の御聲援たまはらん事を乞ひ願ひ奉る。 」
このように美術文化の會が、三朗氏に影響を與えていたことがわかります。また、1年先輩の金子圭助氏も、卒業生の紹介の欄に「美術文化の會とやらに関係し近年は仏像臭くなつたらしい。」と書かれています。金子氏は、卒業後天理語學専門學校で支那語の講師をつとめ、天理大學発足後も教員として天理教學を擔當されていました。このように二人の天理外語の學生が美術文化の會で活動していたので、學內でも仏像や蕓術に関心がある人の間では知られた會だったのかもしれません。 
卒業から約一週間後の10月1日には二等兵として歩兵第153聯隊に入営します。9月の卒業に向けて仏像を彫っている時には、すでに戦地で戦う自身の姿を想像していたかもしれません。この仏像は、高さ約10cmの小さな仏像です。懐中に偲ばせ戦地へ持って行くことも可能な大きさです。しかし、小さな木箱に納めて、生家に置いていきました。
仏像には顔が彫られておらず、「戦爭から帰ったら顔を入れるつもりだったのでは」と芳弘氏は、三朗氏の想いをくみ取っています。
 

姉の大切な茶碗を真似て

當時の資料には、三朗氏の現住所は奈良県添上郡帯解町大字山(現奈良市)とあり、そこから通學しています。しかし、芳弘氏はその話は伝え聞いておらず、また「卒業生の橫顔」にも「宇陀の山奧から出て來た」と書いてあるので、入學當初だけ帯解から通學していたのかもしれません。
この大字山には円照寺という門跡寺院があります。この円照寺は、百軒家、山本家と縁があったことから、おそらく三朗氏も円照寺から天理外語へ通っていたのではないかと推測されます。
 

三朗氏の姉澄子氏(芳弘氏の母)が、1939(昭和14)年に結婚した際、お祝いとして「滴翠」と記された夏茶碗が円照寺より贈られています。この茶碗を真似て作成したといわれている茶碗も、卒業制作として三朗氏が造り、今回仏像と共に寄贈されました。茶碗の高臺脇には「三朗」と刻まれています。また、澄子氏が賜った茶碗は円照寺の釜で焼かれたもので、「山村御所」(円照寺)の刻印があり、三朗氏作の茶碗にも同じ刻印があり、同じ釜で造ったことがわかります。しかし、焼き上がった時にはすでに三朗氏は入営しており、茶碗の完成を見ないまま出征したそうです。 
また、もう一枚、三朗氏に贈られた皿があり、これも寄贈していただきました。これも同じく「山村御所」の刻印があり、同じ釜で焼かれたものです。この皿には「萬歳」と書かれており、おそらく兵士として出征する三朗氏を送り出す意味で書かれたものと思われます。 

三郎氏の足跡

三朗氏は、こうして卒業制作をつくりあげ、短い天理外語の學生生活を終えて間もなく入営し、日本が終戦を迎える1ヶ月前の1945(昭和20)年7月21日に、ビルマ(現ミャンマー)にて戦死します。
敵の砲弾を受け負傷した三朗氏は、「ここでいい。おまえらだけで行け」と従兵に言い、従兵は三朗氏を小さな川に架かった橋のたもとの大木にもたれさせ、その場を去ったそうです。まもなくして、従兵は銃聲を聞きます。おそらく自決して最期を迎えたとされています。

『心光』14號には創作文として三朗氏の「傳誦」が掲載されています。三朗氏が中學へ入った頃の自身の身の回りに起きた出來事を綴った作文です。芳弘氏の母である澄子氏や父冨次郎氏も登場し、當時の宇陀の村の情景、村人の生活の描寫が寫実的で、民俗學の資料にもなる作品です。

戦時下という環境や繰り上げ卒業のため、勉學に勵む時間や學生らしい生活が本來よりも短い期間しか送れなかった三朗氏ですが、いくつも詩や創作文を殘し、卒業制作も作り上げ、天理外語の卒業生であるという足跡をしっかり殘されました。
この仏像と茶碗は「さぶちゃん(三朗氏)が生きた証しを同世代に屆けるために母校へ凱旋するんです」と芳弘氏は語ってくださいました。
 
參考資料
?『昭和十八年度天理外國語學校一覧』天理外國語學校
?天理外國語學校「昭和三年三月 卒業式ニ関スル書類綴」
?『心光』第13號 天理外國語學校心光會報國団総務部編集発行 1942年1月25日
?『心光』第14號 天理外國語學校心光會報國団総務部編集発行 1942年9月20日
?京都新聞 2015年6月4日
?京都新聞49717號 2020年8月16日

 
(年史編纂室 吉村綾子)

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